なぜネットでは議論が噛み合わないのか?
タイトルにあるように、ネットでは色んなことが日々議論されています。
しかし、その議論はいつも
平行線を辿ってばかりです。
色んな意見に賛成 反対があるのは当たり前ですが、どのような議論になっても
最後はレッテル張り、誹謗中傷で終わることはよくあることだと思います。
それは、匿名掲示板やSNSであっても同じだと思います。
ではなぜ?
議論が噛み合わないのか?
それについて少し考えていきたいとおもいます。
まず一つ目に考えられるのは
自分が正しいと考えいる
これがあると思います。
ネットの性質上、自分の似た考えの情報や人
コミュニティが多くなり、客観的に自分を見ているつもりでも、結局偏りが生じる。
それは仕方がないことなのかもしれません。
しかし、それをよしとすれば、せっかく議論する題材が出てきても、結論ありきの内容ばかりになると思います。
これが議論が平行線を辿る一つ目の理由です。
二つ目は、
相手が自分と同じレベルだと考えてしまう
これがあると思います。
これもネットの性質上相手がどんな人物か判断出来ないので、それが 大人なのか? 子どもなのか? 男なのか? 女なのか?
など様々な立場があり、それを予想して話すのはとても無理なので、結局相手は
自分と同じレベル
と考えて話してしまうこれが起こるのだと思います。
そうなれば、同じレベルだと思って話してみたら通じない結果議論が噛み合わないようになる
これが二つ目の理由です
三つ目は
そもそも議論する気がない
僕は、議論というのが嫌いではないのですが、議論が好きというより、
とりあえず自分の考えを言いたい
これを思う人が多いのではないかと思います
この意見を見てとりあえず思ったことを書き込んでスッキリしたらどこかに行くそうなれば議論が出来るはずがありません。
それが三つ目の理由です
以上の
- 自分が正しいと考えいる
- 相手が自分と同じレベルだと考えてしまう
- そもそも議論する気がない
それが重なってネットでは議論が平行線を辿るのだと思います。
とこのように書いてきたのですが
そもそも ネットで議論をしたい人はどのくらいいるのだろうか?
もしかしたら議論をしたい人の方が少数派なのかもしれません。
議論をしたいという人でも、相手に勝ちたいというのを主眼に置いてる人というのは、議論ではなくてディベートだと思います。
そう考えると
ネットで議論が平行線を辿るのは何故か?
この題材自体ずれているのかもしれません。
内容が右往左往してしまいましたが、
リアルでもネットでも自分の思うようには動かないというのがこれでよくわかりました。(笑)
日々勉強♪ この言葉を見るのが辛い
- ブログでPV増やす
- 株で資産を増やす
- 人脈を増やす
- アフィリエイトで稼ぐ
- 仕事をがんばる
- 断捨離
こういう系統のブログではよく
日々勉強です♪
こんな文字が踊りまくってます。
正直これを見ると少し悲しくなるのは僕だけでしょうか?
そりゃあ、先人の知恵を参考にして日々勉強していくのは大切です。
そのために日々勉強という姿勢で頑張るというのはとても好感が持てるものだと思うのですが、
こういう文章を見ると今の僕の姿と重なって
とても見ていて辛くなるのです。
今の現状に不満を持っていてそれを変える
日々勉強
この言葉だけで不満がひしひしと伝わってきて、悲しくなります。
勉強の哲学という本では
勉強とはノリを悪くすること
と書いていました。
ノリを悪くするというのは、周りと合わせず一度殻に閉じ籠り自分を変えてしまうという行為らしいです。
つまり、勉強というのは本来ポジティブな意味ではないと僕は思うのです。
最初に挙げたブログの人達も結局は今の不満を解消する手段として、アフィリエイトや株
断捨離のような行為に手を出しているのです。だけど不満を隠すために、日々勉強という言葉を使ってポジティブな自分を演じている。
不満が根本にあるのに、ポジティブな言葉で不満をコーディングしたその矛盾が垣間見えるこれに違和感を覚えます。
まるで、
不満を持ったら何かをして昇華しなければならい
こういう強迫観念が見えてきます。
もちろん僕も同じように不満を解消するためにブログを書いているとみなさん思うでしょう
だからこそ、同族嫌悪してしまうのだと思います。
アナ雪ではないけど
ありのままの自分の文章
これを見たいなぁと僕は思います。
つまり僕が言いたいのは、
不満を解消するのが駄目というわけではなく、不満を解消する行為をポジティブに演出する
これがとても嫌なのです。
こんなに日々勉強という言葉を馬鹿にしているのに、自然とこの言葉を使うようになったらその時はまた、その心境の変化をブログに書いていきたいと思います。
キャバクラって以外と楽しい
僕はインドア人間なので、キャバクラというのは、正直楽しめない人種だと思っていました。
学生時代に何回か行ったのですが、正直そこまで楽しくなく、これで行くのは最後かなぁ
なんて思っていたりもしました。
しかし、社会人になって行ってみると
考えが一変しました。
それはなぜか少し書いていきたいと思います。
まず一つめは
好きな話をしていい
これにつきますね。
会社の先輩と話すなら何を話すべきなのか?とか、色々考えて疲れるのですが、キャバクラならそんな事考えずに適当に話せる。
そう思うと、一時間4~5000円を払う価値はあるのかもしれません。
次に、
相手がとりあえず話にのってくれる。
これも重要ですね。
やはり、人と話すということは、相手の話したい話に全力のる。やられて改めて重要だと思いましたね。
最後に
女性と話せる
正直これにつきますよね。(笑)
陰キャであっても、女と話すのは楽しい
正直学生時代の時は、金を払ってまで女と話したいとは思わなかったですけど、まぁえらく価値観が変わりました。(笑)
まぁ、これで感じたことは、出来る出来ないはおいておいて
如何に相手が楽しく話せるのか
これが出来るようになるのが重要なんですね。
僕は、シラフの時は、そういうことが出来ないので、キャバ穣のような、話を出来るようになりたいと思う今日この頃でした
思い出になる音楽 とは
思い出というのはふとしたきっかけで思い出す物だとおもいます。どういうときかと言えば
- 旧友と会う
- 昔よく通っていた道を歩く
- よく使っていたものを使う
- 昔聞いていた音楽を聞く
etc.
など色々あると思いますけどその中で今回ピックアップしたいのは
昔聞いていた音楽を聞く
この事について書いていきたいと思います。
僕は一人でいることが多くてその時は基本的に音楽を聞きながら行動するのですが、
不思議なことに昔よく聞いていた音楽でも
思い出が甦るものと
思い出が甦らないもの
これがよくあるのです。
ぼくのよく聞くというレベルは気に入った曲を1日10回を1ヶ月ガンガン聞くというレベルです。
それだけ聞けば、嫌でも思い出になる物だと思うのでが、それでも思い出になる曲 ならない曲が出てくるのです。
それが不思議で音楽と記憶についての本を何冊か目を通して見たのだけれどなかなか納得いく答えが見つかりませんでした。だから僕なりに考えたことを綴っていきたいと思います。
まず、思い出になるというのは
強烈な記憶と結び付くというのが一つ目にあると思います。
しかし、強烈な記憶なんだから、記憶に残って当たり前です。
僕がここで書きたいのは何気ないことなのに、音楽を聞いただけで記憶が走馬灯のように思いだしその時の感情が甦る現象のことについてなのです。
しかしこの現象は狙って起こすことがすごく難しい。記憶を熟成させるそのタイミングを探ってはいるのだけど、如何せん上手くいきません。それは長すぎても短すぎても駄目なのです。
僕の場合、高校生の時にガンガンにローテしていた曲を今聞いても記憶が走馬灯のようには蘇りません。(笑)
逆に一週間ガンガンに聞いた曲でやってもそう上手くはいきません。
そしてそれが何故なの上手くいかないのか説明出来ないのがものすごく歯痒いのです。
それは自分の気に入った(好み)曲だから、思い出を甦らす引き金になりうるのか、それとも違うのか、
この感覚を持っているのが自分だけだから誰かに説明してもらうことも出来ない
だから袋小路に迷い込んでいるのです。
ただ、この現象が起こるときは、何者にも変えられない快感があり、もしこれについて解説出来る方がいるなら是非ご教示願いたいです。
ファスト風土に騙されるとは
僕は喫茶店巡りが大好きで、地元の喫茶店をによく通います。
喫茶店というのは素晴らしいもので、タバコも吸えて、日頃溜まったストレスなどが吹き飛び、明日の活力が生まれて来るものです。
僕は京都に住んでいるのですが、京都の繁華街にはこれでもかというほど喫茶店が軒を連ねており、全てを回るのは時間的にも金銭的にも厳しいなぁと思っていました(笑)。
続きを読む今週のお題 夏うた と言えば1/6夢旅人
今週のお題「私の『夏うた』」
僕の思う夏うたと言えば
タイトルにも書いてある
1/6夢旅人です
この曲は【水曜日どうでしょう】
という番組のEDテーマであり、
僕の好きな曲でもあります。
夏うたというのだから、歌詞が夏風だとかあると思いますが、なぜか僕はこれが夏曲になります。
その理由はやはり、
水曜日どうでしょう
の企画が夏にこそやりたい企画が多いからでしょうか?
どのような企画かと言うと、
カブに乗って日本一周
サイコロの旅
のような暇な学生が友達と一緒に馬鹿をやるような企画がとても多いからです。
大学生の夏休みにノリだけで遊ぶなんてことは、今じゃ簡単には出来ませんよね
だからこそ、1/6夢旅人を聞くと大学生時代を思い出しまし、夏休みの曲というイメージかあるのです。
もう一度夏休みを味わえるならこういうことをやりたいなぁと思う今日この頃でした
ネットにいるという感覚 エゴサ編
ブログを書き始めた直後というのは、自分の記事が読まれてるのかってとても気になりますよね。
そこで色々調べてみると、Google検索に引っ掛かるには時間が掛かるとか書いてあり、なかなか自分の文章がネットで拡散しないなぁと思っていたんですよ。
でもとりあえず気になるので、
自分が書いた
をエゴサしてみたら……
こんな記事が出できました
「ネットに居る」という感覚
http://d.hatena.ne.jp/coconutsfine/touch/20081119/1227064437
タイトルは同じなのに内容は
全く反対
この差がとても面白かったです。
リンク先を読む人がめんどうな人のために要約すると
- ネットに居るという感覚が普通の人にはわからない
- この表現がすごく文学的
- ネットトークがリアルでは通じない
- この感覚が分かるのはマイノリティ
と言ったように正反対のことを書いているのがとても印象的でした。
(2については、少し自分が誉められたように感じたら書きました(笑))
この記事が書かれたのは2008年頃であり、そこから約10年経つとこの感覚がマイノリティからマジョリティに変化した。
このように受け取って良いものだと思います。
これは、そのままネットが普通の人に普及したからこのようになったと考えるのが妥当だと思いますが、それにしても10年でこんなに感覚が変わるというのは、不思議でなりません。
そこで感じたことは、やはり
身近になればなるほど【いる】という感覚が曖昧になる
結局これですね(笑)
それの是非については僕に決められないけど、ただ一つ言えるのは、みんなあまり、どこにいるかなんてことを深く考えていない
考えれば面白くなるけど、そこにリソースを割かないんですね。
同じネットにいる(居る)という感覚という観点から文章を書いているのに、この感覚について肯定と否定に別れるそれを発見出来ただけでもエゴサしてよかったと思います。